《文化・教育部門》

『四日市公害裁判の記憶 証言で綴る四日市公害裁判』

株式会社 丹青社
 企画担当 橋本由起子

1.「四日市公害と環境未来館」について

四日市市では、1959(昭和34)年に第一コンビナートの操業が始まると、亜硫酸ガスを主な原因とする深刻な健康被害が発生しました。1967(昭和42)年9月には、磯津地区に住む9人の公害認定患者が第一コンビナートに立地する6社を相手に、四日市公害訴訟を提起しました。水俣、富山、新潟、四日市で起きた公害訴訟は、四大公害裁判と呼ばれ、その動向が注目されました。

四日市公害訴訟は1972(昭和47)年7 月24 日、原告側勝訴で結審しました。

それから長い年月が流れ、その間、当時の被害者や支援する市民団体から公害資料館の設立を心より望む声がありましたが、なかなか実現に至らず、判決後40 周年を間近に迎える2011 年に、施設の設置に向けての本格的な検討が始まり、2015 年3 月、四日市公害と環境未来館は開館を迎えることができました。受賞作品は、この施設のシアターのプログラムとして放映しています。

2.展示映像について
博物館などの展示の計画では、伝えたいテーマを伝えるにふさわしい手法をさまざま検討します。展示手法は館と来館者との間をつなぐいわば大切なコミュニケーションツールで、実物、模型、グラフィックなど、さまざまな手法があり、映像もその一つです。

今回の展示で映像を用いたことには大きく二つの意味がありました。
まず、計画時より当時を知る人々へのインタビュー映像の撮影を開始しました。これは対象となる方々がご高齢であり、記憶が風化しないうちにすぐさま資料として記録する事が必要となったためで、結果、貴重なメッセージを映像で残す事ができました。
次に、展示解説を補完するに必要なメッセージを映像が担ったという事です。公共の博物館の展示には客観性が必要です。特に今回の展示で取り上げる裁判には、被害者である市民、加害者である企業が存在し、また企業を監督する立場の行政の3者が存在します。それぞれの立場で考え方も異なります。グラフィックによる解説は客観性を第一に事実を積み重ねた説明となりました。しかし、その背景にあった患者の方々の苦しみ、環境改善に向けての企業や行政の努力や大変さといった事をリアルに伝えることはできません。そこで、インタビュー映像を元に、グラフィックの解説を補うものとして展示するとともに、「四日市公害裁判」をさまざまな視点から語って頂くシアターを設け、来館者に考えて頂くきっかけを作ることが必要と考えました。
結果として、当時さまざまな形で関わった方々のメッセージによって四日市公害裁判を検証するという、非常に意味深い由一無二の映像となりました。


 





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